聴  法  録  451

聴法録451-1
死に臨んで生じる物質的の変化は人智では解し難い

私達は「死」の現象を、何処か遠い国に旅立つように考える。だが、これは誤った思想である。死に就いては、理解することも、思想することも不可能である。この問題は、「大いなる真実の生命は何ものであるか」ということと同じように不可侵のものである。死に関する考えを総合すると、死とは大いなる真実の生命が人に与える或るものだと言う事に帰着する。そして大いなる真実の生命が私達に与える全てのものは善であるから、死もまた善であらねばならぬ。

死後における真実の生命の運命に就いては、私達は何も知っていない。知ることが出来ないのだ。私達は、自己の生命が、何処から出て、何処に行くのかも知っていない。だが、私達はどこからか出て来たのに相違ない。出てきたところがあるなら落ち着く處もある筈だ。

私達は、出生以前のことは、何も知っていない。死後に就いて何も知らないのは当然であろう。生命が、その死後までも継続するなら、大変に結構だが、私達は、これに関して考える力を持っていないのは、甚だ遺憾である。

人間の生死は、研究し得ない変化の連続である。この変化の第一歩は、人間の出生に始まり、死に終わる。しかも、この現象は、私達の研究園外である。

私達のために、最も重要なことが一つある。それは、大いなる真実の生命は私達から何を求めているかを知ることである。この問題の解答は、世の宗教にも含まれているが、私達の良心にも吹き込まれている。そこで、私達の行なうべき重要時は、大いなる真実の生命の要求を知ってその遂行に全力を注ぐことである。私達は大いなる真実の生命の意志を行なう為に、全力を盡していると、大いなる真実の生命はこれを観て、私達に最も必要なものを与えてくれるのである。

「死とは何ものであるか、何人もこれを知らない。」死は大いなる幸福である場合が多いにも拘らず、人はこれを大悪として恐れ嫌う


人間の生涯の中に愛着することは、あまねく人間の幸福のためであると、私は堅く信じている。だから私達が死に直面して経験する総てのことは、幸福を増進する所為でなくてはならないのだ。

大いなる真実の生命が私達人間の内に在り、未来にあると信じていれば、人は傲慢にならないが、これを私達は、日月のように明らかに知ることは出来ない。然し、大いなる真実の生命の存在と、人間の「内在する真実の生命」は不死であることを、私は心に感じている。この理由、つまり実際に大いなる真実の生命はあり。私達には未来の生命があるという信念は、私達から生命が離脱しないことを意味する。

「私達は死後にどんなことに出逢うでしょう」と問う人があれば「大いなる真実の生命の意志が天に於いて行はれるように、地にも行はれん」と答えよう。これは、他の言葉で言えば「この時間的の生涯で行われるようなことを、時間を超越した真実の生命の生涯においても行え給え」という意味である。これは舌の先で言うのではなく、心の奥底から大いなる真実の生命に願うのでなければならぬ。愛なる神(真実の生命)は、この願いを必ず聞き入れるに違いないだから、私達は、死後のことなどくよくよ考えるには及ばないのだ。

キリストは、その死に臨んで「父よ。汝の手に、わが真実の生命を渡さん」と言った誰も、このキリストのように心の底から神(真実の生命)に話しかけるなら、最早何も言う必要はない。死も、真実の生命も肉体から分かれて、その本源に還るものなら、これ以上の幸福はあるまい。