聴  法  録  453

聴法録453-1
死は解放である
私達は、異状に死を恐れる。その理由は、肉体を使命遂行の具とするからである。然し、よく考えてみると、私達の真実の生命が肉体を道具として使っているのだ。死など少しも恐れる理由がないのではないか。
与えられた肉体を、道具として使用している真実の生命は、死に直面した瞬間を甚だ手持無沙汰を感じる。それは、職工が使い慣れた道具を取られたがその後に新しい道具を渡されないという感じである。

私達は、動物や植物の誕生、成長、繁殖、老衰から死に至る道程を、よく知っている。人間も正にこの通りである。然し、人間には、その他に徐々に発達させ、改善すべきものがある。人間の内在する真実の生命がそれである。だがこの真実の生命は宇宙の真実の生命と。内在する真実の生命に生涯の意心を置く人に、死の恐怖はないが、必ず潰滅する肉体に重心を置く人は死を非常に恐怖する。

真実の生命の不死を信じる賢者に向かって、ある人が訊ねた。
「あなたは、真実の生命の不死を信じていなさるが、世の終りが来たら、真実の生命はどうなりましょう」
すると賢者は、次のように答えた。
「真実の生命は不死だから、この世の終りなどには全く無関係である。」

内在する真実の生命が肉体の中にあるのと、人が家の中に起伏しているのとは全く違っている。真実の生命が肉体に宿るのは、旅人が、他人の作った休憩所に憩うているのと同じことだ。


真実の生命の不死を信じることが深いだけ、自己の生涯は浄化される。野卑な動物的な傾向から遠ざかるだけ懐疑の心は弱められる。
未来を覆い隠すものが取り除けられ、闇黒が無くなると、人間は自己の不死を直観する。


生涯の意味を曲解する人は、死をも曲解する。

老子曰く。人を知るは智者であり、自己を知るは賢人である。人に勝つのは強者であろうが、自己に克つのは優れた人である。死が滅亡でないことを看破する者は、永存なるものである。