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| 聴 法 録 46 |
聴法録46-1
わたしは、真実のいのちのことを非常にやかましく言う。と言うのは、真実のいのちのことを、今まであまり言っていない。
阿弥陀仏のことばかり言って、真実のいのちの事を言わないから、いろんな間違いが起こるのではないかと思うのです。
それは、ナムアミダブツと唱えることによって、真実のいのちの働きによって、生かされて、生きている私だと言うことが自覚できるのである。我々から、南無阿弥陀仏という言葉が出ると言う形で、真実のいのちの世界へ我々が届いたと言うことが証明されると言うことです。
もう一つ
大事なことは、はたらきそのものによって我々は、生かされて、生きているにもかかわらず、それを忘れて自分の自我を先に立てて生きている。だから、真実のいのちによって生かされておりながら、「おれが」と言う考えで生きているから、真実のいのちの世界から飛び出していると、こう言うんです。この、飛び出していると言うことを、我々に注意してくれるのが、南無阿弥陀仏である。
阿弥陀仏のはたらきは、我々に向かって「お前は、はたらきそのものによって、生かされて生きているにもかかわらず、自分の力で生きているように思って、ここ(浄土)から飛び出しているのではないか」と。「お前は、真実のいのちによって生かされておりながら、自分の力で生きているように思って、飛び出しているのでないか」そういう注意を我々に与えるのが阿弥陀仏のもうひとつのはたらきです。
我々に、飛び出しているのではないかと、注意することに於いて、真実のいのちのはたらきそのもの世界に帰らせる、そういうことが弥陀の誓願と言うものの働きではないかと思う。それで真実のいのち一つになって生きておるのが、弥陀の誓願と言うもののはたらきでないかと思う。
それで真実のいのちと一つになって生きているのがこれが浄土と言う。浄土の生活と言うものであって、それが救いと言うのだ。救いと言うのは何でもない。真実のいのちのはたらきによって生かされて、生きている自分だと、そういう自分の本当の正体と言うか、姿と言うものを再確認せしめられる。それが南無阿弥陀仏の目的と言うか、南無阿弥陀仏が教えようとすることであると思う。
救いと言うのは、何でもない。真実のいのちのはたらきによって生かされて生きとる私であると言うことが分かるのが、救いであるし、それを我々を教えたいと言うのが、弥陀の誓願が立てられなければならなかった理由であると思う。
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