聴  法  録  460

聴法録460-1
真理に適合する生涯
「自我」の幸福は、人間の意志の外にあるものであるから私達には如何とも為し得ない。然し、「内在する真実の生命の私」の幸福は、心の動き如何、つまり神の旨に従うか否かによって、得るか失うかが定まるのである。

幸福だとか不幸だとか言うのは、晃とか、洋子とか、菊枝とか、春江とかいう肉を被た人がいるからである
人間は、描いた樹木の様なもので、幹や枝や葉は明瞭に見えるが、実は空虚であって、実体は他にあるのだ。内在する真実の生命は肉体によって限定されているが、思想する心は別にある。肉体は、奴隷のように力なく、様々な苦痛に圧迫されてはいるが、内在する真実の生命が司る場合には、自由に生きて悪を知らないのである。


全生涯を、肉から解放して内在する真実の生命に移った者は、その仕事に満足する。それは、人間の目的とすべきものを既に得たからである。

苦痛に満ちた肉の生命は、何時崩壊するか解らない。そして、その行為は、人の嘲笑を被り、馬鹿馬鹿しい結果を見る。この世で優れた仕事を成就するために、人間の生命は余りに短い。だから私達は生命の意義を忘却せぬように心を致す必要がある。高遠なる生命の意義、この意義が心中に明瞭になれば、神という観念が、具体化して来る。「我が首枷は幸福である。」・‥‥
人は自ら首枷をはめるが、この首枷は彼の首枷は彼の首に合うように作られたものでなく、彼が引く車も彼の力に相応したものでない。これは、或は私達のためには幸いかも知れぬだから、私達が持つ神の観念に於いてのみ、この首枷は幸福である。
この首枷は、各人の力量に従って、嵌め込まれるように作られているから、イエスは「我が首枷は幸福である」と教えたのであろう。人々よ。自分の首枷の適不適を、十分に調べよ。これは、汝の持つものが真理か、真理でないかというのと同じことである。キリストもこれを説いているのだ。