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              聴  法  録  52

聴法録52-1

私のようなろくでもない者が、広大な世界の中に生かされて生きている。それが真実の世界である。そういう真実の世界に生かされて生きている自己になるこれを成仏と言うのであろうと思います。
真実の世界に生かされている。真実の世界と言うのは、別に我々この世界に生きている世界と別にあるではなくて、我々は真実の世界に生きているのではないか。草や木、山や川、太陽や月、そういうものはウソをつかぬ。太陽は朝東から出て、夜西へ沈む、毎日そういうことを繰り返している。あれはウソをつきません。ウソをつかず、まじめに、真面目に朝出て夕方沈んでいく、月もこれは、満ちたりかけたりしますが、これは一つの法則があって、「今日は皆が月見だと言うてよろこんでいるから、天気にしていい月を見せてやろう」、そういう色気は月にはない。そういうことは因縁でそうなりますので、因縁のまま生きておるのが、大自然と言うものである。

それが真実の世界だ。その真実の世界に我々は生かされている。たとえば、空気。我々は空気がないと、生きておれない。「お前は心がけが悪いから、お前には空気は吸わせぬ」とはいわない。心がけの悪い私でもちゃんと空気を吸わせていただいている。だから真実の世界に生かされて生きている私である。

そういう私に私になると言うことが成仏である。その、なる前に、真実の世界に生かされている、自己であることを知らねばならぬ、その知ると言うことが、すなわちなることである、こういうことです。知ると言うのは、どうして知るかと言うと、自分のような愚かなものでも、自分のような無能力なものでも、自分のようなろくでなしでも、真実の世界の中に生かされている。

生かされている我々は第一、虚仮不実でないか、ろくな心を持っておらんでないか、その虚仮不実の私が、真実の世界に生かされて生きている自分である。こういうことを教わると言うことは、非常に破天荒なことであると思います。こういうことを知って、人間が変わると言いますか、人間革命が起こらなければウソである。

もしこういう真実の世界に生かされて生きている自分であると言うことのわからない人は、自分の能力によって、自分一人の力で生きているとうぬぼれている者であって、ちょうど我々も赤ん坊も変わりない。我々も赤ん坊も真実の世界に生かされて生きている。我々は、自分のはたらきによって生きていると思うかもしれないけれども、働くための頭とか、働くための手足とか、働くための目鼻とか、そういうものは、自分の力でできていると言いますが、人間を超えた世界から、真実のいのちのはたらきから与えられているものです。その与えられているものを使って、使わさせてもらって生きているのが我々である。

そういう点では、赤ん坊も私も変わりはないのです。ですから真実の世界に生かされて生きている真実の私、その真実の私を知ってその真実の私になる。「なるほど、自分のようなろくでなしでも、生かされて生きているのだな」と気づいて真実の世界に生かされている真実の私になると言うことだと思います。