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| 聴 法 録 55 |
聴法録55-1
総て、無理のない自然の行為は、そこに何かが入り込んだり、付け入る隙を残さない。初めから終わりまで、その行為そのままが自然なものであり、そこに何の痕跡も、又、しがらみやもつれもない。
聖人とは、このようなやり方が出来る人であり、だからこそ、そこには、何の意図もなく、人々は、聖人のそばにいるだけで、知らないうちに救われてもいるだろうし、教えられてもいるだろう。
又、聖人は、ことさらに自分の利害にとらわれて、人を近づけたり遠ざけたりと言う作為技巧を弄しない故に、そこには、取る人も捨てる人もないし、取るものも捨てるものもない。
このような聖人の無為自然な言動こそ、明智因となるものであり、このような道理を明らかにすることを、真実のいのちを明らかにする、と言うのである。
故に、このような聖人、即ち、明智の人の眼からみれば、善人は、不善の人の師であり、又、不善人は、善人の糧であり、根源を成すものである。
然るに、その師である善人を貴ばず、その善人の糧であり、根源である不善人を愛さなかったならば、たとえ知恵あるものであっても、人生を歩くにおいて、大いに迷うことになるだろう。物事の表面にとらわれず、その根源を見なさい、と教えている。
人間の五感で捉まえ得るもの、眼に見え、耳に聴こえ、肌で感じる様な表面的事象の奥に、それらの表面的事象を表している根源がある、その根源、見えないものを見、聴こえない音を聴き、触れないものに触れることこそ、真実のいのちの極意である、とでも言えようか。
そして、この世に現れている総ての表面的事象は、それを生じた大元、根源的なものに常に触れているのである。ただ、我々人間がそれを察知しえるかどうか‥‥聖人、明智の人、悟った人、偉人、賢人と言われるような人々は、表面的事象を通して、その奥にある微妙で捉えどころのない、みえないものがみえる人々のことだと言えるだろう。
物事の是非を論じることが出来るのは、その表面的な事柄しか見ていないからである。しかし、その表面的事象も又、永遠の「真実のいのち」の途上に顕れた一つの石ころの様なものに過ぎない。
その石ころのみを見て、永遠を知らなければ、生死は一つの位である、という教えも、物事に執着して要らぬ煩悩を生じる愚かさも、きっと聴こえもせず、見えもしない事になってしまうだろう。
しかし、「真実のいのち」というものは、面白いもので、それら総てを包含し、ひと時も留まる事無く、諸行無常を顕し続けている。
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