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| 聴 法 録 56 |
聴法録56-1
仏教で、娑婆即寂光土、色即是空、空即是色、などと言われている対立する二つの概念は、一つのものから二つに分かれ、それは又、一つのものに帰る。
つまり、相対立する概念は、他方が消滅すればもう片方も消滅してしまうものなのだ。全、完全とは、それが消滅したところ(統合されたところ)に存在する。物事は、それらの繰り返しで動いている。
総てのままでは静寂のまま、総ては死に絶えたも同然の状態になるだろう。宇宙の総ての営みは、生より動が生じ、動より反動が生じ、それらが極まれば、そこには再び静寂が顕れ、静寂が極まれば、そこに再び動のエネルギーが顕れる。
「聖人は一を抱き」とは、聖人は、これらの動きに惑わされること無く、常に物事の本質を捉え、物事の本源、統合されたものの中に自らを置く故に、自ずから、天下の規範となると言うことなのである。
相対立するものの片方を抱けば、それは必ず対立するものとの争いを生じ、混乱の中に我が身を置くことになるだろう。仏教の説く、執着するな、とらわれるな、捨ててしまえ、等の教えは、まさに聖人の境地に身を置きなさい、と言うことと同じなのである。これが、自他の争いのみでなく、自らの心、内面の葛藤をも超越することになる。
一を抱き、つまり、全体に身を置き、そして、仏教で言えば、娑婆と寂光土の両側に両足をかけて歩いたならば、それは、全体と部分そのままありのままに生き切ることになりはしないか。
娑婆なければ寂光土なし、娑婆を厭うなかれ、寂光土を望むなかれ、娑婆の中に寂光土あり、寂光土の中に娑婆がある。娑婆即寂光土、このありのままを抱き、娑婆に生き、寂光土に生きる、ここに、この世の苦厄を超越する智慧があるのである。真実そのままを見て知る、これが般若(仏)の智慧と言われる所以である。
色即是空、空即是色、なべて、万物は一に帰し、一はこれ、万物に帰す。
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