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| 聴 法 録 57 |
聴法録57-1
物事はいろんな見方が出来ますが、その見ている深さによって、相対的な見方から、次第に物事の根本(根源、大元)に近づき、その深さが極まれば、おそらく相反するような事柄でも一つの統合された姿として見えてくるでしょう。
ここでは、人(他人)を知ることを「智者」と言い、自分を知ることを「明」と言うように、しかし、究極のところ、「自分」と言うものが分からなければ、「人間そのもの」を知ったとはいえず、それを引いては「他者」を知ったと言えなくなります。
「智者」と言う言葉をどのように解釈するかによるでしょうが、ここでは、「智」と「明」と言う言葉の使い分けをしているところうを考えると、「智者」と言うのは、物事に適切に対応できるもの、処世に長けている者、というニュアンスが含まれていると解釈すると、「明」との違いが見えてくるのではないかと思います。
しかし、突き詰めれば、「明」でなければ、真の「智者」にはなれない、そういう事になるのではないでしょうか。
孫子の兵法にいわく、「相手(敵)を知り、己を知れば百戦して危うからず」、とあるように、物事に常に的確に対処し得る為には、片方を知るだけでは覚束ないのであります。
人を知ると言い己を知ると言っても、結局その究極のところうは「自他を知る」、つまり「人間そのもの」を知ることとなるでしょう。
又、人に勝つ者は力があり、自分に勝つ者は強者である、と言う事にしても、自分すら勝てないものが、他者に勝てる道理もなく、真の強者たらんとすれば、先ず、自分に勝つものであることがその必要条件となるのではないでしょうか。
そして、自らに勝つために必要なものは、強固な意志であります。
しかし、その強固な意志を自からの欲望のために使うならば、おそらくそれは、自らを常に貧しいもの、満たされない者、不足しているものにしてしまうでしょう。
何かを求め続ける人間の強固な意志は、そこに阿修羅の世界を構築し、安穏はなく、果てしのない戦いの世界を展開していくことでしょう。
自他の安穏と平和のためには、「足るを知る事」がその根本において必要なことであり、「禍は足るを知らざるにより大なるはない」のであります。
代の様々な事件の根底に流れる人間の思いをよくよく観察するならば、この事がよく分かるのではないでしょうか。不平不満は、足るを知らない処より生じ、その想いより生じる者は、大きな禍を生じずとも、人の心を貧しいものにしていくことでしょう。
「知足者富」は、足るを知る者、つまり、満たされない想いが無い人こそ豊かな人、
真の「富者」である、と言う事であります。
又、自らの本性に逆らわず、無為自然の状態で生きることが出来れば、それは長く存在し続けることとなる、と言うのは、つまり、自分の本性を無視して日々作為技巧を弄さなければならない様な状況に身を置くならば、当然、自他の作為技巧に翻弄され、そのような状況においては、変化も甚だしく、心身ともに疲労し蝕まれて長くそこに在り続けることは出来ない、ということでしょう。
人が死んで、肉や骨が無くなり(変化し)、それでも尚、亡びない者とは、さて、何でありましょうか。根本の少し手前で考えるならば、「寿命」と言うものは、想い(思想)的なもの、つまり、魂に繋がり、いわゆる霊魂とか怨霊的なものに繋がるかもしれません。それらは、確かに死んでも尚のこるものとして、この世に生きている人間よりも、その命は長く存在する事でしょう。
しかし、それは未だ「永遠のいのち」と言えるようなものでではありません。
「永遠のいのち」とは、この宇宙に普く存在するすべての生命大元、「いのちそのもの」であります。その「いのちそのもの」と同化した時、人は永遠のいのちに帰ることが出来るでしょう。つまり、仮に人間の霊魂と言うものが死後存続するとしても、それは永遠のいのちとは言えないのではないではないでしょうか。
少なくとも、霊、或いは霊魂などと言う名称を持つような特別な何かが存在すると言うことは、それらは、この宇宙に普遍的に存在する「いのちそのもの」と同化したもの、つまり、形として捉えることのできない、人間が認識することが出来ない、
それ故、名も無く、強いて名付けられて「真実のいのち」とか「空」などと言われる、「いのちそのもの」、総ての根源となる恒久普遍の「永遠のいのち」と言えるようなものでない、と言う事がいえるでしょう。
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