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| 聴 法 録 58 |
聴法録58-1
真実のいのちは、普く行き渡っていて、其れは総てに影響を及ぼし、総てを支配している。
万物はこの真実のいのちに依って生じ、そしてこの真実のいのちからはなれることはない。
何かを生じさせるだけで名が無い。
万物を生み育てながら主とならず、常に無欲である。
従って小さいものと名付ける。
万物は真実のいのちに帰すれども主と為さない。
従って大いなるものと名付ける。
最初から最後まで何処においても自らを大いなるものと為さない。
それ故に、能く其の大いなるものを完成するのである。
「尽十方無碍光如来」
仏の光明は何ものにも妨げられる事無く十方に普く行き渡っている。
「清風」
四方八方まさに普く存在しているのであり、どこかで機まった尽きたなどと言う事はない。
「廓然無聖」
禅の究極の真理とはどういうものか?という問いに、それは、青空の様に清々しいという様なもので、そこに聖なる真理などと言うそんなものは無い、と達磨大師は答えたと言う事です。
梁の武帝と言う人は、非常に熱心に仏教に帰依しておられ、民衆の為にいろんな善行をされた人です。この人が、達磨大師に「自分の善行の功徳どういうものですか」と尋ねたところ、達磨大師は「無功徳」と答えた。功徳を求めてなされた善行に対する功徳などと言うものは無い、と言う事ですが、禅は外界を見ることでなく、どこまでも己の足元を照らす明かりを持ちなさい、と教えています。
その明かりが無い、ならば、功徳(仏教の場合、苦の解脱、自分の喉をいやすこと、涅槃に至ること)など得られるはずも無い、と言う事は当然の道理と言うものである。
臨済曰く、「赤肉団上、一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入りす。
未だ証拠せざらん者は、看よ、看よ」と。
つまり、人間のこの肉体上に、<時空を超えて普遍的に存在する>「一無位の真人がある」と。その「一無位の真人こそは、総てを生じ、又、そこに帰す、真実のいのちそのものであり、「真人」であるからこそ、そこには自らを大いなるものと為すことも無く、自らを大いなるものと為さないからこそ、逆に大いなるものを完成させることが可能なのだと言うことがいえるでしょう。 |
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