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             聴  法  録  59

聴法録59-1

「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」
「有」と「無」と言う対句にこだわるとおかしくなるだろうか。
「無」と言う言葉は、「現象として捉えられないもの」と解釈した方がより適切かと思われる。

「無」と言うものを「真実のいのちそのもの(総ての根源、大元)」と考えている。
それに対して、「有」と言うものは、「真実のいのちのはたらき」と捉えている。
このように解釈するならば、
「天下万物は、真実のいのちの(はたらき)より生じ、真実のいのちの(はたらき)は
真実のいのちそのものより生ず」と。

真実のいのちそのものは、誰にも捉えることができないが、その真実のいのちの(はたらき)が顕れ始める時には、未だ、眼には見えず、耳に聴こえずとも、微かな兆しがどこかに現れ始めていることだろう。そして次第に様々な兆候を見せながら、
それはいつしか我々の前に、眼に見え、耳に聴こえるものとしてはっきりと姿を現す。

「観自在菩薩・・・・・照見 五蘊皆空 度一切苦厄… 」
という般若心経の冒頭の一節になるでしょう。

部分を掴む事も大切ではありますが、全体を掴む事はもっと大切であります。何故なら、我々が知り得る部分をどれほど継ぎ足しても決して全体にはならないからです。全体は我々が知り得る部分の総てを庖含して、なおそれ以上のものであることを忘れてはならないでしょう。
見えないもの、聞こえないもの、それは決して「無い」のではありません。