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| 聴 法 録 6 |
聴法録6−1
誰に「答え」という、「理屈」を貰ったわけでもないのに、自分では、それと気付かぬうちに、内在する真実の生命の声を聴かせていただき、内在する真実の生命の光(智慧)を見せていただいているのです。私たちもそうです。自分に気付かぬだけです。なぜなら、私たちはさらに、内在する真実の生命の光が見える。心の目、内在する真実の生命の声が、聴こえる心の耳、そんな目や耳を賜っているからです。賜っているものに、気付かず、自分の向うに真実という夢を、探し続ける私たちです。内在する真実の生命の教えとは、夢から覚めて、直接内在する真実の生命の声を聴き、直接内在する真実の生命の光を見ることです。
物を見たというに、何故という理屈はない。聴こえたればこそ、聴こえたというより他にない味わってこそ、初めて味を知る。
我が内なる真実の生命は、真実の私と真実の親に合わせてくれる。真実の私に、真実の親が会いに来てくれた。あったは、あった、味わったは、味わった。ふれるという語がとくに有難い、これは全く直接である。あったと言えば、あったである。味わったと言えば、味わったである。直接である。
冷暖自知、実に、その通りである。
真実の親の慈悲、親の光に直接に、ふれるという事が、宗教の真の真実である。ここが実に有難い、然し注意を要する。余り言語を言いすぎると誤りが生じてくる。
信仰は直接であって、決して人の言葉や書物で、得られるものでない。言葉や書物は、唯、親に接する縁たるに過ぎない。信仰の問題は、唯直接に光にふれるというのが最も大事なのである。親の光に接触して、親の力が真実の私に加わりて、初めて安慰をえるのである。
親の願いに、触光柔軟の願いというものがある。衆生の人我が光明をこおむりて、その身に触れるものは、心身柔軟にして、人天に超過せん、若しならずんば正覚をとらない。触るると云う語がまことに有難い。これ全く直接である。言語、書籍、理屈、是等は皆間接である。信仰上何等の利益もないのである全体五感の感である。感というものは直接のものである。 |
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