本文へジャンプ
              聴  法  録  60

聴法録60-1

注意してみようとしても見えないもの、これを名付けて「無色透明」と言う。よく聞こうとしても聴こえないもの、名付けて「無音」と言う。これを捉えようとしても捉えることが出来ない。名付けて「無形」と言う。

この三者は、極め尽す事は不可能である。故に渾然一体となって、その上も明らかと言うことも無く、又、その下もくらいということもない、これらは極まりなく、名付けることもできず、循環してまた「無物」にかえる。これを姿形の無い有様、何も無い物のかたちと言う。これを(微妙で計り知れないものごと)と言う。

たとえ、これを迎える事があったとしても、その始まりも分からず、又、その後に随ったとしても、その姿も足跡も分からない。
ただ、古の「真実」を執って、それで、今ここに生じているものを制御する。よく古の初めを知る事、これを「真実のいのち」根本と言う。

「真実」の根本とは、ものごとが生じるその初めを知ることであり、これは、物事が生じる以前でありますから、当然、見たり、聴いたり、その姿形をとらえる事も出来ないものであります。

しかし、それを知る事が、「真実のいのち」の根本なのだと言います。見ようとしても見えないものをみる事、聞こうとしても聞こえないものを聴く事、古今を貫く「真実のいのち」の法則性を知る事、これは、釈尊の説かれた「縁起」の法則性、又、華厳経、般若心経、禅の思想とも相通じるものであります。これら総ては、物事が生じる道理を、よくよく見よ、と教えているのではないでしょうか。

物事が生じる道理、つまり物事がこの世に顕れる以前からの道筋を見極めることが出来れば、それらを制御可能である、と。
仏教で言えば、自分の想いが生じる以前の本来の自己を知りなさい、それが苦の解脱の根本であると、と、その様にいう事が出来るでしょう

「真実のいのち」の思想は、この世の総ての「真実のいのち」に通じていると思います。総て、物事の本質を知る事、つまり、物事の生じる初めをしかと見極める事、それが出来ればこの世に生じる物事の多くの道理を極める事になるでしょう。
「観自在菩薩‥‥照見五蘊皆空  度一切苦厄‥‥」
という般若心経の冒頭の一節になるでしょう。

部分を掴む事も大切ではありますが、全体を掴む事はもっと大切であります。何故なら、我々が知り得る部分をどれほど継ぎ足しても決して全体にはならないからです。全体は我々が知り得る部分の総てを包含して、なおそれ以上のものであることを忘れてはならないでしょう。
見えないもの、聞こえないもの、それは決して「無い」のではありません。