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| 聴 法 録 61 |
聴法録61-1
老子は、総て「内実」が伴わなければ、孔子の言う仁義礼智などと言うものは、それは「虚飾」であり、それらは人間の自然の「徳」が失われた時に、世に顕れるものだと述べている。
確かにその通りかもしれないし、ある人々は、老子の言う、そういう「虚飾」を嫌って、世の中の名誉や権力をもった人々のいる華々しい所を避けて生きる人もいることだろう。
孔子の教えと、この老子の教えの違いは、対外のはっきりと見える世界に視点をおいたものか、見える世界でなく、見えない世界、つまり、個々の人間の内面、自然の摂理、宇宙の本質的なものまで視点を向けたものであるか、そういう視点の高さ、広さの違いなのではないかと思われる。
その視点の違いが、孔子の思想においては仁義礼智を尊ぶ教えとなり、老子の思想においては、仁義礼智は虚飾であって、それらは人間ほんらいの姿、無為自然の「道」に逆行する「不実」なものとなるであろう。
しかし、自然のままでは、この世に虚飾や悪が横行し、秩序が保たれない故に、仁義礼智が唱えられ、真実と善とより美しいものを人間に希求させたのではないか。
人間は、自身の自由と平和の為に、他者の自由と平和を踏み躙り、まるで虫けらのように人の命を奪っていく。
それは、決して地獄の鬼の仕業ではなく、人間、自分自身の中にある自己愛、我欲のなせる業である。そして言うまでも無く、それが強ければ強いほど、自と他が融和する事は難しく、その思いの強さは、他のいのちを己の道具にしてしまうだろう。
虚が実を実たらしめ、上辺の虚飾が己の内面を振り返らせる。
虚が実を振り返るのか、実が虚を振り返るのか‥‥甚だ危うい‥‥。
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聴法録61-2
つまり、頭に常に「徳」という文字を浮かべての言動は、下徳であり、徳などと言えるようなもので無く、徳といえる言動は、それを為す人の意識には即に「徳」を為しているという意識もこだわりも無く、ただ、日々その人にとって当たり前の言動を為して、しかもそれが徳の道に叶っている、そういう人を徳がある人と言い、これが上徳である。
従って、上徳は、意図的に何かを為すと言う事も無く、当然、「徳」の「為にする」と言うこともない。しかし、下徳は、常に意識の中に「徳を為そう」と言う事がある故に、その言動は常に「為にする」ものとなってしまう。
上の仁と言うのは、仁を為すが、「為にする」と言う事は無い。
上の義と言うもの、これは、「為にして」初めて義となり、「義」をもって、人々の賛同や名誉を得ようとする。
上の礼、つまり、礼をしっかり弁えている人は、、自らが礼を尽くして、それに相手が応えなかった時に、その相手に対して乱暴したり、罵倒嘲笑を浴びせがちである。
故に、普通、「徳」と言われるようなものは、「道」失われて後に人々の注目を集めるようになる。そして「徳」が失われれば、今度は「仁」が問題とされる。
「仁」が失われれば、「義」、「義」も失われれば、そこに「礼」を重んじようとする風潮が顕れる。
「礼」と言うものは、「忠信」の装飾であって、自然の人身からほど遠いものであり、これが煩く言われるようになれば、それは、「乱」のはじめである。
前もって身に付けた知識などと言うものは、「道」の「華」(上辺の飾りのようなもの)であり、それは「愚」の初めともなる。
これらの事を分かって、大人物は、重厚なところに居て、薄っぺらな処に居らず、その居る処は、「実」ある処であって、「華」つまり、虚飾の処には居ない。
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