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              聴  法  録  62

聴法録62-1

宇宙の営みと言うものは、人間から見れば何も変化していないように思われるけれども、非常に長い時を経て、人間には、どこが始まりでどこが終わりなのかも分からない程の変化を繰り返しているのではないだろうか。

地球上のさまざまな生命を見ていても、その自個保存のために与えられている自然の造形や機能の神秘さ巧妙さを思うと、そこには個々の生命のエネルギーとも言えるような、何らかの意思が働いているように思える。
それは、そのもの達の自己生命への永遠の想い、自己保存の願いが、非常に長い年月をかけて、自然に具現化された姿であるように思える。これは、生命の強い「想い」が、この世の森羅万象を変化させていると言っても良いだろう。


人間を含めて、万物は、人間が作為技巧を弄さずとも、自ずから望む方向へ生成変化していく‥‥この事が、
「真実のいのちは常に無為にして為さざる無し人もし良くこれを守れば、万物自ずから化せんとす」と言う事ではないだろうか。

「想い」のエネルギー。
我々は、内面の「想い」をあまりにも軽んじてはいないだろうか。
表面に表わさなければ、それは問題ないんだ、というように。
しかし、それは大きな誤りだ。

自身の内面の想いが自分の様々な言動の土台になっている、つまり、自分の内面の想いが、自覚しようがしなかろうが、自らの物事の見方、考え方、行動を強く支配していることに気づかなければ、それは言動の不一致をもたらし、外部の信用を失い、人生において非常に危うい道を歩くことになってしまうだろう。

これは、もしこのような人物を国家の指導者としたならば、国家の信用を無くし、国民を窮地に追いやる結果を生じると言う事である。

言動の不一致を軽くみる事なかれ!
その人の言葉は、自分の想いを達成するために、人々を欺く事を
平気でなす人だから。

つまり、そういう人の生き様は「無為自然」(想いのまま行動する)
とは言わない。それは「作為不自然」の生き方である。

「死の商人」というのは、人間の我欲を土台とする、果てしのない「欲望」を満たそうとして「作為不自然」を為す人々の姿なのかも知れない。
それは、国籍によらず、人種によらず、世界の至る所に存在する。

「人が無為自然であれば、万物は自然に自ら変化していこうとする、と言う事を逆に表現すれば、人が作為技巧を弄して事に当たれば、万物の自然の変化を阻害し、大いなる混乱をもたらす、という様に解釈できるだろう。

「無為自然」というのは、「小欲知足」でなければ、現し得ない生き様である。

それにしても、一体、人類は何を求めているのだろう‥‥。
進化?その進化によって人間は何を手に入れようとしているのか?