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              聴  法  録  66

聴法録66-1

魂とか心と言うものは、その言葉の定義を考えるとその正体はまことに掴みどころが無いものですが、俗に言われるところうの、魂、心は自分を少し振り返ってみれば、常に動いていて少しも留まる事が無いと言うことが分かります。

人間は、そういう活動して止まない魂を戴いているけれども、なおかつ一、つまりその根源、大元のあらゆるものを生じさせる調和の世界をもって、よくその「真実のいのち」から離れないのでいるのか?と

「真実のいのち」は様々なものを生じさせます。だからこそ、人間にとっては矛盾だらけの様に思えるような様相も当然生じさせます。しかしその矛盾は、人間にとって矛盾に見えるのだと言う事を忘れてはならないでしょう。

もっともっと大きな宇宙、高い視点から見れば、おそらく人間が感じている矛盾は、矛盾でも何でも無く、総ての事は、当然生じるべくして生じている事態だと言えるでしょう。
それでも人間は、その様な目先の矛盾にとらわれてしまいがちです。

この世の姿は、人がそのような矛盾、不合理に反応して生きる様々な想いにとらわれ、執着し、それを何とか自分の想い通りにしようとして様々に動き回ることから生じていると言ってもいいでしょう

何故、動き回らずにはいられないのか?それは宇宙が何故かくも営々とその活動を活動を続けているのか?と同じ疑問になるでしょうか。

この世を、宇宙を形作っている根元のもの、それ自体がどういうものか分かりませんが、ただ言える事は、すべてのものを生じさせている、極微、根元の<もの>、それ自体がそれだけでは<安定しない>何かのエネルギーに他ならないからと言う事が言えるのではないでしょうか。

プラスとマイナスのエネルギーは、ここにそれ自体存在するけれども、それ自体では決して何の働きもしない無(ゼロ、人間が考える安定状態)にはなり得ず、必ず、安定し様として片方を求めて動き回ります。

しかし、例え一時的に安定し得たとしても、他の多くの不安定なものの動き回るエネルギーによって、影響され、その安定は、永遠なものとはなり得ない訳です。

個々の人間の話に戻れば、それがひいては他者との摩擦を生じさせ、そこに様々な喜怒哀楽が生じる。
これは、その時々の喜怒哀楽自体に問題があるのではなくて、
それにとらわれ、執着し、何時までもそこに留まって自分を苦しめる状態におく事に問題があるのです。

その様な状態に長く自分をおけば、その心は、不即不離である自分の肉体の免疫力を低下させ病気を呼び込み易くしてしまいます
心の苦痛は、当然肉体の不調和を生じさせます。

そういう動き回る自分の心に振り回されてはいないか?
無邪気な赤ん坊の様に、目の前に生じるものにその都度反応したとしても、それに執着することなく、さらさらと通り過ぎる事が出来ているか?と。自分がそういう状態であれば、そこからは多くのものを生じさせる事が出来るでしょう。

あたかも女性が本来的に持つ子供を生み、やしなう神秘がそこにある様に、自分は、そういうものであり得ているか?と。人間の考える理屈、論理は、あくまでも<人間の思惑の中>にあり、
例え、過去の偉大な哲学者等の思想を総て知り得、その違いを理解したとしても、それらは、宇宙から見れば、海辺の砂のほんの一粒一粒を表現しているようなものに過ぎないのだと言う事を、もっと私達は知らなければならないのではないかと思います。
様々な物事に明るく通じていて、尚、よく自分が無知である事が本当に分かっているか?、と。

永遠のいのち(エネルギー?>を垣間見ることが出来るのは、
時間を超越したところで偶然遭遇したとも言える様な絶対的な瞬間においてだけなのかも知れません。何故なら見ている自分の<本質>を見ようとすれば、見ている自分を分解(破壊)してしまうことになるからです。自分を分解してしまえば、当然そこには見ている自分はもういないのです。その様な状況で垣間見た何かを証明する事はおそらく不可能なのではないかと思います。