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| 聴 法 録 74 |
聴法録74-1
叡智、仁義、功利は、飾りに過ぎない。
これは、功利はよいとしても、叡智や仁義に関しては、一見、疑問を感じる方もおられるかもしれないが我々は何の為に、叡智や、仁義を身に付けようとするのかを、よくよく思案すれば、案外、自己を偉大に見せるための飾りであると言う所に帰するのではないだろうか。
つまり、叡智や仁義が尊ばれるのは、大道廃れて仁義ありの時代だとか、或いは、功利を求める世の常の習いの如く、他者との比較における自己の優位性の確保の為に、人は、これらのものを、欲している場合も少なくないのである。
世間において、仏、菩薩、声聞、縁覚、聖人、博士、学者、その他様々な名称を自己に冠して、或いは、他者に付与して人間を区別、差別するがごとく人々においては、それらのものを棄てた方が遥かに民衆の為になると言えるかも知れない。
おそらく、何の道であれ、純粋にその道を求めている人においては、この様な飾りは、用の無いものであろう。従って、この様な人々は、必然的に何らかの集団に所属する事になるだろう
これらの飾りは、属する所のものが無くては、意味を為さないからである。
人間と動物の違いは、その智慧にあると言えるだろう。ある深さ迄の見方をすれば、その持っている自己防衛、自己保存本能は同じであるが、その防衛、保存の方法において、どれ程緻密に深く様々な技巧を弄しうるか、つまり思慮し実行しうるか、と言う一点において大きな差があると言える。問題は、その智慧をどう使うかにあると言えるだろう。
神や仏と悪魔や鬼の違いは、まさに、この人間の智慧の使い方の違いをあらわしていると言えるだろう。人は、そのどちらの方向性も持てる生き物なのである。人間が、百獣の王として生きるか、神仏の様な存在としてこの世に生きるか、その選択は、個々人が自らの手の中にもっている。しかし人間が、自己保存本能、自己防衛本能を持っている他の生き物たちと同じ生き物であることを考えた時に、神仏的生き方など、到底不可能であり、その様な生き方をすれば、我が身の破滅だと思えるかもしれない。
そこのところうを、過去、偉大なる人々の叡智は、我々に解き明かしてくれている。つまり、叡智や仁義、功利を求めるような、私利私欲、我欲と言うものが、如何に自他を損なうかと言う道理である。
もし、人間に他の生き物と違う尊厳と言うものがあるならば、その道理を獲得する事によってその尊厳を保ち得ると言う事になるだろうか。
それは、決して、他の生き物たちのことを考慮することも無く、人間の利便性、快適性のみの追求のために使われるところをもって言われる言葉では無い筈である。その様な行為は、人間の尊厳と言うものではなく、この地球を自らの都合で支配する。エゴと自己中心的思考による智慧であり、悪魔の方向へとその智慧を使うことを意味する事になり、人間の尊厳とは、まるで正反対の方向を向いていると言えるだろう。
その様な智慧の向かう方向に、生き物の、否、人類の平和も安穏も決して得られることはないであろう。何故ならば、宇宙の生命エネルギーは、人間にはどうしようもない。大きな力でもって、すべてを一つの大いなる循環の中で動かしているからである。
人間の都合で、一つの生き物、例え、眼に見えない様なウイルスであっても、そのあり様を変えるならば、それは人間の想像もつかない様な連鎖反応的膨大な変化をもたらすことになる。その変化が未来において、人間の生存を脅かすことになっていく。これ故に、殺人兵器としての原爆の如きものを作り出す、神仏の心、方向性を持たない化学の智慧は恐ろしい脅威を人類にもたらすこととなる。
人間の尊厳は、神仏の方向へとその持てる智慧を使う事によって、初めて人間自らが獲得し得るものなのではないだろうか。
それは決して、単なる飾り物にはならないはずである。
そして、それは、極めて単純な事であるが、他の生き物同様、自己保存、自己防衛本能を持ち、他の生き物にはないような優秀な頭脳を以ってこの世で生きる我々人間にとっては、我欲を減少できなければ、言うは易く、行うは極めて為しがたい困難な事でもある。
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