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| 聴 法 録 75 |
聴法録75-1
阿弥陀仏とは、自己を離れて如来なく、如来の外に自己はなしと言う、如来に絶対的に依止して立つ、まったくの根本的主体において自覚されるものである。
この事は、「私共は、神仏が存在するがゆえに神仏を信ずるのではない。私どもが神仏を信じるるが故に、私どもに対して神仏が存在するのである」というところうに、見事に表明されている。そしてここにこそ、その精神主義の至極があったわけであろう。
そして「自分にも本願」がある。自分の本願と言う事を照らして出して下さるのが、阿弥陀仏の本願である。仏の本願と言ったら、虫けらのような我々にこそ本願があることになる。阿弥陀仏に超世の本願があるならば、私ども一人ひとりにも皆、絶世の本願がある」と言い「私どもと阿弥陀仏とが無始久遠の昔に一つものだ、と言う事を教えて下さっているのが本願と言う事であります。」と了解するのである。
この様な思索は、『我如来を信じるが故に如来まします也』に「信あるが故に如来まします。」
信のないところには如来ましまさない。
「信のあるところに如来まします」といい、
また「信ずると言う事を離れて、如来まします」ということは考えられない。信じられない人には、全く如来などと言うことはわからない。というところに帰結するものであろう。
すなわち、「阿弥陀仏の光明を見る事が出来るのは、光明が外から来るのではなくて、実に自分等の内にあるからでなくてはならぬ、外から来て自分等に見えるものは、どこまでも外のもので、自分等を動かすものであり得ない。
外のものは自分等に対して立っている。
その故に、両者の間には、超え難き塹溝がある。これはどうしても渡れるもので無い。それ故、こちらはあちらによりて動かされない。それでも動かされると言う事のあるのは、外のものが内のものであった時である。外が内になるは横超である。
この横超の故に、吾等は光明を見ることができる。光明を見ると言うのは、それを外において、眼で外物を見るごとくに見るのでなくて、内に感ずることである。つまり、光明が我らの内に動く、それを感ずるのである。自分の眼で外のものを見る場合の如く、感性的確実性がそこにあるので、それで見ると云う。「見るは、感ずるのである、信じるのである、証するのである」。
そして、この阿弥陀仏の教説において、それが多く有相的、感覚的に表現されているのは「俗世間の言い草にしばらく妥協したもので、それを文字通りに解したら体験の事実は大いに歪曲せられてしまう。我等はいつも二元の世界に居て話しするから、何事もそんなふうになってくる。殊に真宗の立場ーーー教相なるものーーーは、この立場を絶えず願みて行うとするから、浄土の如実相を解せんとするものは、深く心をここに致さなければならむと言う。
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