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| 聴 法 録 82 |
聴法録82-1
道は常に名も無い原木のようなものである。
たとえ小さくとも、天下の誰もよくこれを自由に操ることなどできるものではない。
統治者や君子がもしよくこの道の理を知り、これに従うならば、万物は自らその統治者を敬い従うだろう。そうして天地は相和して甘露を降らせ、民衆は何一つ命令する事など無くても、民衆自ら、総てと均しく調和する事だろう。
始めに諸々の自然現象、更には、形や決め事などが生じて、それぞれに名が付けられる。しかし、その名付けられたものも又、既にその様に生じたところの生じた大元が有るのだから、その行き着く先、その大元、その根源を知りなさい。
その究極のところうを知れば、総ては悠々として自らに適っており、危ういと言う事も無い。道が天下に普く存在していると言う事は、たとえれば、まさに、急流の川や険しい谷、その行き着く先は、悠々と流れる大河や広大な海であるのと同じ様なものである。
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聴法録82-2
「道」と言うものは、あるものから、あるものが生じる理であり、その根源であり、太古の昔から脈々と息づいているいのちそのものである。と言えるだろうか。
その、物事の生じる理を知り、その根源を知ったならば、諸々の対立するように見えている事柄が、その大元においては一つのものであると知る事になるだろう。
そして、それを知る事は、総てに統一と調和をもたらし、今、人間が費やしている多くの煩い悩みから人間を解放してくれる事だろう
「道」と言い、「空」と言い、その「名」の故に、まるで異なったものであるかのように思えるものの何と多い事か。それらは、その表面のみしか見ていないからではないだろうか。
谷川の急流の水と大河の水と異なっている部分、それは、その水に由って来るところ、その生じる理を知れば、その違いの部分は自ずから明らかになる。
大河の水と、海の水の違いも然りである。そこにある種の違いがあるのは、その環境つまり、それらの存在する所を高所から大局的に眺めれば、その違いが生じるのは、当然の事、そこに何の不思議も無くなる筈である。
水は、その流れが急流となったり、ゆったりと流れていたり、又、澄んでいたり濁っていたり、又、その道筋が続いていながら、片方は単なる水であったり、片方は、塩分を含んだ塩水となったり‥‥
水は水として様々な在り様を示しながら、なお水である本性を失わない。その様に在りながら、その在るところにおいては、様々な在り様を示す。その在り様は、自らそうあるべきして、その様な在り様を示しているのである。
人間も又、同じ様な存在だと言えるのではないだろうか。
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