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              聴  法  録  83

聴法録83-1

『しるべし、仏法は、まさに自他の見をやめて学するなり。もし自己即仏と知るをもて得道とせば、釈尊むかし化道にわずらはじ、。しばらく古徳の妙則をもてこれを証すべし。

むかし、則公監院という僧、法眼禅師の会中にありしに、法眼禅師とうていはく
「則監寺、なんじわが会にありて、いくばくのときぞ」

則公がいわく、
「われ師の会にはべりて、すでに三年をへたり」

禅師のいわく、
「なんじはこれ後生なり、なんぞつねにわれに仏法をとはざる」

則公がいわく
「それがし、和尚をあざむくべからず。かって、青峯禅師のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり」

禅師いわく、
「なんじいかなることばによりてか、うることをえし」

則公がいわく、
「それがし、かって青峯にといき、
いかなるかこれ学人の自己なる。
青峯のいわく、
丙丁童子来求火」

法眼のいわく、
「よきことばなり、ただし、おそらくはなんじ会せざらんことを」

則公がいわく、
「丙丁は、火に属す。火をもてさらに火をもとむ。自己をもて自己をもとむるににたりと会せり」

禅師のいわく、
「まことしりむ、なんじ会せざりけり。仏法もしかくのごとくならば、けふまでにつたはれじ」

ここに則公操悶してすなわちたちぬ。中路にいたりておもひき禅師はこれ天下の禅知識、又、五百人の大導師なり、わが非をいさむる、さだめて長処あらん。

禅師のみもとにかへりて、懺悔礼謝してとうていわく、
「いかなるかこれ学人の自己なる」

禅師いわく、
「丙丁童子来求火」と。

則公、このことばのしたに、おほきに仏法をさたりき。

あきらかにしりぬ。自己即仏の領解をもて、仏法しれりというにはあらずということを。
もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。

ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の偽則を諮問して、一向に座禅弁道して

一知半解を心にとどむることなかれ。

仏法の妙術、それむなしからじ。』


注釈

丙丁(へいてい)童子来求火
(丙丁童子来たって火を求む)
丙(ひのえ)・・・火の兄
丁(ひのと)・・・火の弟
二人の火の兄弟がやってきて火を求める。

操悶(そうもん)して
気分を害して 
ムッとして
聴法録83-2

『この単伝の正法には、入法出身、おなじく自家の財産を受容するなり。証の得否は修せんもののおのづからしらんこと、用水の人の冷暖をみずからわきまえるがごとし。』

正法においては、悟るにしても、自由の境地にあそぶにしても、それはいずれも自分の財宝を味わう事に他ならない。だから、悟ったかどうかも、それを修するものが自然に知る事であって、それは、ちょうど水を用いるものが、その冷たい暖かいを自分で知るようなものである。