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              聴  法  録  87

聴法録87-1

仏教の修行者は、心を内省することを、心がけてきました。

「屋根を粗雑に葺いてある家には、雨が漏れ入るように、心を内省していないならば、情欲が心に侵入する」
ところが、自分自身のものであるはずの心は、実はままならぬものです。我々の手に負えない。

「心は捉まえ難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく」
それだけでにとどまりません。心と言うものは、実に恐ろしいものであります。
「憎む人が憎む人に対して、怨む人が怨む人に対してどのようなことをしようとも、邪まなことをめざしている心は、それよりもひどいことをする。」
まさに
「悪性さらにやめ難し。心は蛇蠍のごとくなり」という親鸞の声が聴こえてくるようです。しかし、逆に正しく導かれたならば心ほど尊く、心ほどたよりになるものはない。

「母や父も、そのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる」この世の中を、地獄にするも、極楽にしてくれるのも、ただ心一つであると言う事が
できます。

「宗教の教義は絶対的」とおもっている人も少なくないかも知れませんが、それは違います。宗教の教義は、しょせん相対的なものであると言う事は、仏教では、明言しています。教えは筏のようなものであるということは、原始仏教以来説かれていました。

宗教の教えと言うものは、悩める人間を、流れを超えて彼方の境地へと導いていく、その方便であり手段です。渡り終わって目的を達したならば、それを捨てて、またかなたのものをめざすべきです
つまり、もし形式的な教えにこだわる教条主義にとらわれるなら、宗教は人類を破滅に導く恐れがある。教義は役目を果たしたなら、捨てなければなりません。

人類を破滅に追いやるものがあるとすれば、それは頑迷な教条主義ではないでしょうか。そこで、宗教に関しては、とくに寛容の精神が必要となります。
寛容の精神を現実化するためには、みずから内省する事が必要です。他人からの何気ない批判の言葉耳にして内省するならば、自分の愚かさ、至らなさに気づくようになりますしかし、なかなかその通りの気持ちにはなり難いようです。

むしろ、自分が愚かである、欠点がある、力が弱い、という現実を直視する事によって、人は、言われなくても謙虚になるものです。
そして、その事実を直視する事によって、本当の力が出てくる。思い上がるな。