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| 聴 法 録 93 |
聴法録93-1 大切です
見えないものを見る。聴こえないものを聴く。触れないものに触れる。ずっとここにこそ真との感動があると信じて、そのことを追い求めて来た。だからこそそのものは、現実にあるものよりももっと美しい。もっと深い意味を持つ、もっと迫ってくる。だからこそ、追い求める意味があるのだ。だからこそ、数千年の時空を超え、あらゆる民族の相違を超え、主義主張を超えて、人間普遍の境地に立って味わうことが出来るのだ。
無いからこそ有る。色が無いモノクロームだからこそ、そこに多彩な色を想像し観ることが出来る。無音だからこそ、あらゆる音を感じることが出来る。無いからこそ有る。無いからこそ豊富になる。豊富さとは無いことから生じる。我々は、この真の豊富さを追い求めて来た。
「真実のいのち」という宇宙の根源を深く承知し、その有り様を体得する事を説く哲学である。では、その真実のいのちとはどの様なものなのか。つまり真実のいのちとは、見ようとしても見えないもの、聞こうとしても聞こえないもの、触ろうとしても触れないものだという。
一体これは何を表しているのだろうか。この世のもの総てが、「見えるもの、聞こえるもの、触れるもの」である。我々はそうして世界に暮らし、そうしたものの一挙手一投足に、一喜一憂し、悩み苦しみ怒り嘆き、喜び安らぎしている存在である。
しかし我々は、もう一つ気付かなければならないことがある。この世にはもう一つの存在があることを、それは、「見えない、聞こえない、触れない」存在があり。それこそがこの宇宙の根源を成しているのである。つまり、むしろ我々が心を向けるべきは、こちらの方なのである。
これは、一見見えないが、よくよく見る、目の力で見るのでなく、心によって、心眼によって見るべきものであり、その声は耳で聞くべきでなく、心で聞くべきであり、手で触るべきでなく、心で触るべきもだと言うことを示しているのである。
それこそ我々は心の安定、つまり「安心」を得ることが出来る。安心の境地とは、見えない、聞こえない、触らないものとの一体感において初めて得られるものである。
そんなことが我々人間に可能なのであろうか。
この世の万物は総て真実のいのちより生じたものと言う事は、我々人間も真実のいのちから生じたものなのである。いわば真実のいのちこそが我々人間の母なのである。母である真実のいのちと子である我々人間が、何故一体となり得ないのであろうか。我々人間が真実のいのちを母と気づかないからである。町ですれ違っても、気付いていないから出会うことはない。
我々人間の真の母が真実のいのちであることを我々に気付かせてくれているのだ。と同時に、見えたり、聞こえたり、触れたりする一過性のものより、もっと永遠不滅の存在があることを我々に知らせている。真実のいのちが無限の存在だからこそ、万物という有限の存在を生みだし続けけているのだ。
したがって我々は、この無限の存在と一体感を得るべく「視れども見えず、聴けども聞こえず、得てども得ず」の存在を相手に生きて、初めて至極の境地に到達できるのである。
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