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              聴  法  録  94

聴法録94-1

禅士から、「如何なるか『菩堤心』と問われた。
拙僧は、「自分で答えてご覧」と反した。
続けて「自他一如」と。

座禅をしている時、50%程度のレベルの禅士なら、自問自答という心の動きに出くわす。。何故なら、聞く相手が居ないからだ、つまり、本当に己を無に出来ていれば、聞く人と答える人の区別はない中途半端だから、己の中に師と弟子が出来る。

母に会えば子供になる。しかし、禅者なら、母に会えば母になる。
それが、『単(一)』になること。頭で考えたことは『一切不是』
禅士:「単(一)」になる術は如何に。
拙僧:「無を知る者と共に生きよ」
拙僧:「余念を捨てよ」
禅士:「つまり・・・・」
拙僧:「カーーーーーーーーーーーツ」

「比較」する事なかれ。
比較とは、心の内に対象物があるから起こる。無心(余念を無くす)となれば比較は無い。
それは、禅堂でなくても出来る。どこでもできる。歩歩是道場。
それが『菩堤心』。
菩堤の心とは、余念のないこと。