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             聴  法  録  99

聴法録99-1

私の中に、妄念煩悩あると言いますが裏からいうと、貪欲と瞋恚と愚痴の煩悩が形を取ったものが、身体とさえ感じられるその中に限りなき真実の生命が私の中に内在し我ここに居るぞ、供に居るぞと念じづめ、呼びづめ、招きづめその呼び声を聴くのみそれより救われる道はないその他は、煩悩の世界を流転するのみ。

私の肉体としてのいのちは、老衰し、病になり死期が近づいて、朽ち果てます。しかしながらほんとうの生命は健全である。この場合の健全なる生命とは、形を超えた限りない生命そのものであり、そのいのちは私有化を許さない肉体としての私を超え、私を貫いている限りない生命のはたらき私における真実のいのちであり、自己に生きている生命でありながら自己を超えている。

いのち、朽ちようとしている肉体に対して、私を、私たらしめている、限りない生命、これこそ真実のいのちであり、永遠の生命である

人間のいのちの場合、身体はいのちの取る姿であって、いのちそのものではない。肉体のいのちをつかむ、それは生命の殻をつかんだことであり、生命の影をつかんだにすぎない。「花びらは散っても、花のいのちは散らない」例えば、桜の花びらは、毎年一回限り、そのつど咲いては、そのつど散っていく。しかし花びらは、そのつど散っても、その花を毎年咲かせている。

桜のいのちそのものは、毎年相続されていく。「いのちの形と生命そのもの」限りなき生命そのものと、それが形を取った個物ないし身体との関係をよく表している。

真実の生命とは、かたちのない「動き」であり、「はたらき」であり、しかもその生命は目覚め(覚)を含んでいます。それゆえたんなる動きや、働きにとどまらず、自から目覚め、他を目覚めさせようと働く覚体であります。それを法性法身(真実のいのち)と示された。

法性法身(真実の生命)は、個物としての形を離れていますから「長短方円のかたちにもあらず、青黄赤白黒の色をも離れ」ているのは、当然であるしもし長短方円の形を取っているものであれば、それは生命の取った一つの形にすぎません。そこで法性法身(真実の生命)は、色や形や大小を超えている。そのために、十方世界にみちみちており、真実の生命としてすべてに内在する。

内在するがために、私の真実の親として、永遠の生命と幸福を与えてくれる。何があっても内在する真実の親と供に歩み、真実の親を忘れることなく、私の絶対なる生命として生きる、このことこそ私がこの世に生まれた意味があり、生活があるのだ。真実の生命を敬い、真実の生命はたらきに感謝する。
このことこそ、私の一生である。

聴法録213に至る