本文へジャンプ
               聴 法 録 12

聴法録12-1

真実とは如来以外にはない。働きをもって純化し浄化し物に方向づけをし、そして継続一貫せしめる真実功徳、小さな小さな存在、それを衆生と言おう。大きな大きな世界それを絶対と言おう、如と言おう、その如なるものが私に向かって働きかけてる姿を如来と言う如より来世するという。

そこに真なるものが、私にとって実となる。如より来世するもの、南無阿弥陀仏が、私において事実となる。それを「真実とは如来なり、如来とは真実なり」と言われた「真実とは虚空なり」虚空とはあらゆるものを包むもの、広い広い世界であって、包むという働きをもつ、摂取する力を持つ。「真実とは仏性なり」仏性とは、如より来て私の中に生きて、私を生まれしめるもの、それを仏性という仏性こそが真実であり、真実は必ず仏性となるのだ。

人間は人間を浄化することは出来ない。本当に本当に浄化の働きを持つもの、それは常に人間を離れたものにある。それが人間に生きて人間を浄化する。それを仏性と言い信心と言う。それを向うにある、向うにありながら私にある。それを如来と言う。真実とは如来であり、如来こそ真実である。ここに浄化作用がある。浄化された姿が不実功徳の発見である。向うが働きかけてくればこそこちらが自らに覚めていく。そこに回向がある。

聴思修の果てに、自己自身の目覚め、自己自身への愛着、私の愚かさ、お粗末さというものにぶち当たる。これが信への道である。本当の目覚めはここにしかない、その回転がなされるまで、頑張らなければならない。壁にぶち当たるまで必死に頑張って、どうにもならない時が来る、もう自分にはどうにも、頭を下げた時のみ、如来よりの呼びかけの声が聴こえる。これが「如来より賜りたる信と言う」仏からの呼びかけが、私に届いて、私を高い世界に出す。それを「如来より賜りたる信」という。

如来よりの智慧が自己自身に目覚めさせる。そして同時に仰ぎ見る世界を与えられるのである。

私はお受けもできねば、頼むこともできぬ。疑いも晴れねば自力を捨てることもならぬ。どうしても自力無効どうしても助かる望みがない。地獄一定、無有出離之縁これが私の価値である。ただ南無阿弥陀仏
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに晃一人がためなりけり」