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| 聴 法 録 17 |
聴法録17-1
大いなる「生命」に、生かされて生きている。そして全てに、満ち満ちている「生命」の中で育まれて生きている。万物の中に於いて、万物に支えられて生きている。
私の「生命」というものは、一つとしてない全て大いなる「生命」である。私の「生命」は私の物でないと言うことは、私の物は何一つとしてない、全て大いなる「生命」の現れである。
それ以外の何物でもない。ましてや世間全般のことにたいして、大いなる「生命」の現れとして受け入れるべきである。これを錯覚して自分の生命と考えて、自分が生きている、自分が何事のできる、自分が正しい、自分の思うようになると考えて、自分中心に物事を処理しょうとする所に、煩悩がおき苦悩する。だから自分の生命と錯覚しているために、煩悩苦悩から出ることが出来ない。
これが罪悪深重の、愚か者と言われ煩悩成就と言われるものである。そしてその中から脱する事がなかなか出来ない。全て大いなる「生命」であり、自分の生命というものは一つとしてない。全て大いなる「生命」の現れである。それ以外の何物でもない。
それを考え違いをしている、錯覚している、 自分の生命でないと言うことが解らない。大いなる真実の生命の誓願は、そんな私に対して本当の道理に気付いてくれ、目覚めてくれと願われているこの私であると言うことである。大いなる真実の生命の誓願は、この私のために、この私一人のために立てられたものである。大いなる世界、大いなる「生命」に気付いてくれ、目覚めてくれとの願いである。
この事を信じて生きて行くしか、生きる私の道はないと思う。生かされて生きている。救われている。法は出来上がっている、救われている、法は出来上がっている。大いなる「生命」の中にいるのに気が付かない。私の「生命」だと思っている。
その私に気付いてくれよと願われているのに無視し、その気持ちをふみにじっている私である。過去もそして現在も、その願いに背を向けて気付こうともしない私である、まことに申し訳ない私である。 |
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