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| 聴 法 録 24 |
聴法録24-1
大いなる「いのち」
「仏を知る」ということと、「自分を知る」と言うことは、別のことではないのです。
煩悩の暗闇の中にいる私たちは、「救われる」というと、何か自分に都合のよいことが起こるように思い込んでいるところうがありますけれども、煩悩を喜ばせるのが「救い」ではありません。そうではなくて、煩悩にまみれて苦しんで苦しんでいる自分の姿を、ありのままに知ることが、「救われる」と言うことなのです。
私たちの中から、「煩悩」がなくなる望みはありません。「私」が生きてる限り、煩悩はなくならない。煩悩を無くする為に「私」に出来ることなど、何もないのです。
ですが、私たちの中にあるのは、「煩悩」だけではありません。私たちが信じていてもいなくても、私たちの中には、仏の「いのち」があるのです。
仏の「いのち」には、願いがある。その願いと言うのは、私たちの心に光が届くこと、ボロ屋に明かりが灯ることなのです。
私たちが「仏」と呼んでいるのは、その大きな「いのち」のことです。その大きな「いのち」が「ボロ屋」に明かりが灯ることを願っているのです。とすれば、もう何も言うことはありません。ただ、その願いのままに生きて行くだけです。
私たちは、南無阿弥陀仏という念仏を唱えておりますが、仏の願いは、この南無阿弥陀仏という名号に込められています。お念仏を唱えると言うことは、仏の願いを口にすると言うことです。大きな「いのち」は生まれることも死ぬこともない、永遠の「いのち」です。私たちは、その永遠の「いのち」の光に照らし出されるまで、「いのちの真実」には気付けないのです。
私たちは、一人ひとり、みんな違います。ですが、誰の中にも、みんな、決して無くなることのない「煩悩」と「仏性」があるのです。私たちは、ばらばらだけど、一緒なのです。
私たちは、自分自身の力で生きているのではありません。大きな「いのち」に支えられて、生かされて生きているのです。その大きな「いのち」が「ボロ屋」に明かりが灯ることを願っているのです。
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